Mar 29, 2012

何かを生み出してくこと

消費だけの生活から、少しでも何かを「生み出せる」ようになりたい。

そんなことを最近よく思います。

バーガーキング

現代社会に生きている限り、僕たちは人間同士の「繋がり」の中から逃れることはできないでしょう。僕たちが生活の中で使う物はすべて誰かが生産したものです。たとえばファーストフード店のハンバーガー、そこにあるスマートフォンやパソコン。個々の素材(部品)を製造する人、それを調理する(組み立てる)人、もしくは実際の商品を運ぶ人、それを販売する人といった、挙げればきりがない「生産」のおかげで、僕たちは初めて「消費」することができているわけですよね。だとしたら、「消費」ばかりしている僕のような人間には、自分は何を「生産」できるのかという問いが生まれてきました。


吉野源三郎氏の『君たちはどう生きるか』。僕がこの本を初めて読んだのは中学生のときだったと思います。当時なかなかの衝撃を受け、その時から今までに何度も読み返してきました。この本、すごく読みやすいのですが、ものすごく大切な問いかけを読者に投げかけてきます。その中のひとつが人生における「消費」と「生産」に関するものです。当時の僕は「おまえは何を生み出しているのか?」の問いに対して、「おそらく何も生み出していない。でも、自分に何ができるのかは見当もつかない。」といったような状態だったと思います。

動機、理由、そこから得れるものを抜きにして考えれば、おそらく微々たるレベルでの「生産」は多くの人にとって可能だと思います。たとえば、アクセサリーを作って販売する、曲を作る、なんらかのサービスを提供する、イベントを企画するなど「生産」の形はたくさんあるでしょう。

では、今の僕は、果たして何かを「生産」できているのでしょうか。
結論からいえば、本当に微々なレベルでの「生産」は行っているのではないかと思います。アルバイトで英語を教えたり、外国人の方に日本語を教えたりしていますが、これも一種の「生産」行為であると思います。または、読者が一人でもいてくれる場合は、ブログだって一種の「生産」行為ではないでしょうか。また、現在僕が行っている英語ディスカッションの集まりも「生産」と呼べるレベルにまでもっていきたいと考えてます。

「生産」に関しては、その行為自体に加えて「動機」や「結果として求めるもの」(金になる、ならない)などの要因が絡んできます。さらに、「消費」をする際には、多くの場合、「通貨」が必要にもなってきますので、「消費」と「生産」的行為とは切っても切り離せないところがあります。これは「働くこと」とも大きく関係している問題です。どうやら学生の僕はこのことをもっと突き詰めて考えていかなくちゃいけないようです。

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