Oct 15, 2013

ホーチミン放浪記⑤

#④のつづき

少し間があきましたが、ぼちぼち続きを。

12時を過ぎた頃、昼食をとるためにメコン川の間に浮かぶ島のひとつに上陸することに。
5人から6人でひとつのテーブルを囲む。僕と相方はフランス人カップルと台湾人カップルと座ることになった。台湾人の彼氏は、僕らが日本人だとわかると、「"いただきます"だったっけ?」とニコニコしながら話しかけてきた。


そして、メインデシッシュとしてテーブルに並んだのがこの象耳魚(カー・タイ・トゥオン)。箸をつけてはみたものの、強烈な生臭さに耐えられずに断念。ふと横に目をやると、そこにはうまそうに象耳魚を食らう台湾人カップルの姿が。


昼食を終え、再び船に戻る。大きなメコン川の主流から外れ、まるでジャングルのように生い茂る木々の間を進む。ふと、サイパンのマニャガハ島に行った時のことを思い出す。水のきれいさ(ここは茶色く濁っているのに対して、マニャガハの海は透き通っている。)と戦争の残骸の有無(マニャガハには不自然に残る日本軍の戦車がある)を除けば、非常に近い雰囲気がある。

一時的であってもこうやってしがらみから解き放たれ、自然の中に身を置くことで、心が落ち着きを取り戻すような感覚を覚える。ただし、そんな風に思うということは、つまり僕が都会に生まれ育ったからであって、もしこのメコン川に浮かぶ島のひとつに生を授かっていたら、果たして今、ここで、僕は何を思うのだろうか。

29/52 choice paralysis

意図的、無意識的にを問わず(そもそも僕たちに能動的に選択する権利すらない場合の方が多い)、僕らは何かを選択し、同時に何かを手放している。

何かを手に入れるには何かを手放す必要がある。

誰かのとなりに腰を下ろすということはその他の人間のとなりには座らないということ。今、ここに居るということは今、他の場所に居ないということ。

そんなことをぼんやり考えていたら、船は僕らが船に乗り込んだ場所に戻っていた。陸に上がった瞬間に東南アジア特有のスコールにみまわれた。駆け足でツアーバスに乗り込む。メコン川クルージングも終りを迎えようとしていた。


音楽に想いを馳せる

Music in motion and stillness
多くの人にとって、人生のある一地点を過ぎるまでは音楽の趣向は程度の差こそあるにしても変遷していくものなのだと思う。

ふとした瞬間に以前好んで聴いていた音楽と再会することがある。そんなときに当時の想いたちが私たちに帰ってくることがある。言葉では言い表せないような、ある種の重さを伴ったものから、胸がほっこりするような温かいものまで。そんな経験を幾度となく繰り返すうちに、改めて心に残る音楽とは、作品自体の素晴らしさだけではなく、そこに付随した私たちの想いが私たちを離さない、そういった種類のものなのではないかと思わずにはいられない。

それは言葉によるフラッシュバックとはまた違う、私たちに選択の余地を与えない類いのものな気がする。それが音楽の素晴らしさであり、同時に残酷なところでもあるのではないか、と。

music
(Aldous Huxley)

Oct 8, 2013

【読書】『モモ』


岩波少年文庫。小学5・6年以上向け。メディア論で仲良くしてもらった先生から勧めてもらった一冊。強烈なメッセージ性を帯びた作品で、予想外に楽しませてもらいました。

ファンタジー色の強い作品は、概して「子供向け」なものが多いように思います。最近のものなら、『ハリーポッター』、『ダレンシャン』と世界にファンタジー文学は満ち溢れています。子供を筆頭に人々に夢を魅せるファンタジー文学。

そして、もうひとつファンタジー文学に顕著な特徴があるとすれば、それは、ファンタジーのフィルターを通して現実を風刺する、あるいはなんらかのメッセージを現実に生きる読者に授けようとする、一面ではないでしょうか。『モモ』もあらゆるメッセージを読者に投げかけてきます。

The Passage of Time
「時間を奪われ続ける人間たち」

一言で言うならば、そんな人間たちと少女モモの物語です。「時間」とは一体なんなのか。果たして捉えられるものなのか。「効率の良い生活」とはどんな生活のことをいうのか。「時間」と「幸福」との関係性。そんなことを読みながら考えていました。

「時間を奪うことで生きる灰色の男たち。効率のいい生活を標榜しながらも、知らぬ間に灰色の男たちに時間を奪われていく大人たち。やがて子供たちもそんな極端な効率化の波にのまれていく。そんな彼らを救えるのはモモただひとり。」


効率化の時代と「奪われた時間」
「効率化の時代」なんていったところで、印刷技術に携帯電話と挙げればきりがない上に、今に始まった話ではないのであれなんですが。効率化とはつまり「余暇の捻出」(「洗濯機があるおかげで余暇が増えた」)のことではないでしょうか。それを著者のミヒャエル・エンデは「奪われた時間」といいます。一体どういうことなのか。少し考えてみました。

結論から言えば、効率化に歯止めが利かないのではないか、ということではないかと。

fast food

効率化することで生まれるはずであった余暇。それすらも金銭と引き換えに、さらなる効率化に充てる。作品の中で、いかにもファーストフードを風刺しているシーンがあります。料理の質を落とし、回転率をあげ、売上を上げる。お客は急ぎ足で食べ物を選び、会話もなければ、笑い声も聞こえない。彼らはせわしなく店を後にする。なぜなら彼らも「効率化」の波にのまれているから。人々はさらに余暇を切り崩し、より効率化のための時間を捻出しようとする。モモはそんな様を目撃し、圧倒されます。

時間、そしてモモという少女

モモという少女は孤児で、必然的に貧困を強いられています。ただし、だからこそ彼女は、灰色の男たち、効率化、大人たちから自由でありえるわけです。絶妙な設定というか。全体を通してよくできています。

モモの生きる「時間」と他の人々が生きる「時間」は明らかに別物であり、そこが「時間」のおもしろさというか。享受する人間、あるいは場所によって、存在そのものが異なってくるという。いやーよくできています。ここまでざっと書いてきましたが、まだ消化しきれていないので、もう少し時間をかけて考えてみます。

【独断的評価】★★★★★