少し間があきましたが、ぼちぼち続きを。
12時を過ぎた頃、昼食をとるためにメコン川の間に浮かぶ島のひとつに上陸することに。
5人から6人でひとつのテーブルを囲む。僕と相方はフランス人カップルと台湾人カップルと座ることになった。台湾人の彼氏は、僕らが日本人だとわかると、「"いただきます"だったっけ?」とニコニコしながら話しかけてきた。
そして、メインデシッシュとしてテーブルに並んだのがこの象耳魚(カー・タイ・トゥオン)。箸をつけてはみたものの、強烈な生臭さに耐えられずに断念。ふと横に目をやると、そこにはうまそうに象耳魚を食らう台湾人カップルの姿が。
昼食を終え、再び船に戻る。大きなメコン川の主流から外れ、まるでジャングルのように生い茂る木々の間を進む。ふと、サイパンのマニャガハ島に行った時のことを思い出す。水のきれいさ(ここは茶色く濁っているのに対して、マニャガハの海は透き通っている。)と戦争の残骸の有無(マニャガハには不自然に残る日本軍の戦車がある)を除けば、非常に近い雰囲気がある。
一時的であってもこうやってしがらみから解き放たれ、自然の中に身を置くことで、心が落ち着きを取り戻すような感覚を覚える。ただし、そんな風に思うということは、つまり僕が都会に生まれ育ったからであって、もしこのメコン川に浮かぶ島のひとつに生を授かっていたら、果たして今、ここで、僕は何を思うのだろうか。
意図的、無意識的にを問わず(そもそも僕たちに能動的に選択する権利すらない場合の方が多い)、僕らは何かを選択し、同時に何かを手放している。
何かを手に入れるには何かを手放す必要がある。
何かを手に入れるには何かを手放す必要がある。
誰かのとなりに腰を下ろすということはその他の人間のとなりには座らないということ。今、ここに居るということは今、他の場所に居ないということ。
そんなことをぼんやり考えていたら、船は僕らが船に乗り込んだ場所に戻っていた。陸に上がった瞬間に東南アジア特有のスコールにみまわれた。駆け足でツアーバスに乗り込む。メコン川クルージングも終りを迎えようとしていた。